恩師との運命的な出会いから、香りのビジネスを始め出した矢先
1995年平成7年1月17日の忘れられない大惨事。
当時、私達家族は、両親と同居(居候として2階の四畳半一間で間借りしていた)していたところから車で10分ほどのアパートに移り住んでいましたが、古いアパートの4F では縦揺れ横揺れも大きく、箪笥が倒れてこないように両腕を突っ張って必死で仁王立ちしていました。
大量発注による葛藤
香りのビジネスはまだまだ始まったばかり。
生活のために私は陶器の仕事はそれからもずっと続けていました。
そのころは、神戸にもたくさんの取引先があった為、大変心配していましたが、幸い知っているひとは皆生存されていて安堵したことを思い出します。
しばらくして三宮の東急ハンズさんから注文の電話と FAX が入ったときには、びっくりしてしまったのですが、大量の注文だったのです。
この震災で、陶器やグラス類は全滅。すべて破損して店内に散乱しているとのことでした。
震災からどのくらい過ぎたのかも今となっては覚えていないのですが、周辺にはレストランやバーのオーナーなどが大勢営業をされていたので、そんな方たちが営業再開するのに必要な食器類が大量に必要とのことでした。
当然ながら、弊社にはそんな大量のストックがあるわけではないので、急遽トラックを借りて、四日市、土岐、多治見、の窯元さんを片端からまわり、業務用となる食器を積んでは、一日に2往復もする日もありました。
困っているお客様に通常の金額で販売するわけにはいかない。そんな思いは店舗のバイヤーさんも持っていました。
私は、メーカーと交渉をして、お皿もカップも(10インチのディナー皿100円、マグカップ50円など)破格の値段で出すことを決め、約一カ月間は、ほぼ不眠不休の状況でした。
飲食店の皆さんが困っているときに、少なからずわが社には利益が出ている。
結果としては、この特需で普段の月より逆に売り上げも増えていたのです。
これは喜んでいのか?人の不幸によって利益が上がる商売って何だろう!
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アメリカへの輸出用に販売していたディナー皿
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アメリカへの輸出用に販売していたマグカップ
大震災をきっかけに決意した思い
このような複雑な気持ちは、震災の影響が落ち着いてきてからも続きました。
そして、私は決心します。
香りのビジネスだけで生活できるように頑張ろうと・・・。
何かを真剣に追い求めるのであれば、今手にしているものは手放さなければならないと思いました。
私は、段階を経て陶器の開発と陶器のビジネス自体をやめる覚悟を決めました。
まずは、新しい陶器の開発を中止することにしたのですが、依然としてほとんどの売り上げは陶器関連のものでしたので、売り上げを一気に落としてしまうことは出来ませんでした。
そこで、あるメーカーの社長にお願いして問屋というスタンスで卸売りは続ける選択を取りました。
そのメーカーが作っている陶器だけを扱う販売代理店の承諾をもらったのです。
「二兎を追うものは一兎も得ず」