MY STORY

私のストーリー(気まぐれ日誌)

2021-08-05

第八章:【初めてのアフリカへ】

1991年7月 「ハイ・ホリディ」をオープンさせて丸二年が過ぎ経営不振に悩んでいたころです。

そんな時、また転機が訪れます。

横浜にいる義理の弟からの連絡でした。「お兄さん、もしよければアフリカに行ってみませんか?」というものでした。

Do Do World

彼は、若いときからバッグパッカーをしていて世界中を旅していました。140か国以上は行った経験があるほどの、いわば旅の達人でした。

いきなりアフリカなんて想像もできないですし、しかも聞くところによるとパックツアーではなく全くの一人旅をしてみないかということでした。

(彼は、アフリカ専門の旅行会社に入社していました。現在は、社長)

私は、少し躊躇していましたが、チケット代金が驚くほど安かったので、それなら行ってみようかと腹を決めました。(7万円)

PK 便(パキスタンエアー)で南回り、カラチ(パキスタン)経由ケニアのナイロビ行きです。 ところがこれが大変なことになるのです。

ツアーでハワイに一度切りしか行ったことがない海外旅行の初心者にとって、過酷極まる旅となったのです。

アフリカに行きたいのになぜかインドへ…

1991 年 7 月 法人設立から3カ月ほどした時のことです。

私は、成田発の PK 便が飛ぶ前日に東京の新橋の第一ホテルに宿泊しました。次の早朝に専用のバスに乗って成田空港へと出発したのですが、機材遅れという理由で、その日は飛ばないということがわかり、また新橋まで戻ることになり、結局、丸一日遅れで飛行機は成田をあとにして飛び立ちます。

日本人乗客は私を含めて11名。飛行機はパキスタンエアーですが、前の座席の背もたれ(私の座席の前の背面)をよく見ると JAL の文字が透けて見えていました。これは、払い下げと言われる中古の飛行機を使っているのだとすぐに気が付きました。何時間かが過ぎたところで、アナウンスが入り、「この飛行機はインドのボンベイ(現 ムンバイ)止まりです。」という内容でした。

11名の日本人はそれぞれバラバラに座っていたのですが、私のすぐ近くにいたご婦人2名は私のところへ来て「今のアナウンスは本当ですか?」 「私たちはボンベイに着いたらどうしたらいいのでしょうか?」と矢継ぎ早に質問を受けました。

私も状況がよくつかめてなかったので、スチュワーデスに確認しますが、あまりスチュワーデスも事態を把握できていない様子でした。

そうこうしているうちにインドのボンベイに、PK は本当に着陸したのです。半ば強制的に飛行機から降ろされてしまった私たちは、空港内の一か所にまとめられて、そこで私が空港関係者から呼ばれます。まさに、映画「ターミナル」状態です。


「ミスタータカギ!プリーズカムヒアー」


訳も分からないままにその職員の方に行くと、「全員のパスポートを持ってこい」と言われました。11人分のパスポートを手渡すとその職員は足早に事務所かどこかへ去っていってしまいます。

不安な気持ちで交渉開始

10人の日本人は、何やら不安げな表情で私の素性を推し測るように私を見つめるのですが、その中にまだ20代ぐらいの若い男性が私のところにきて、私にこう言いました。

髙木さんですか?初めまして私は、中村(仮名)と言います。もしよろしければ一緒に交渉に行きませんか?」と。

彼は日銀(日本銀行)に入行2年目の銀行員でした。とてもエリートらしく言葉遣いも丁寧で好感が持てる男性でした。私も自己紹介をして名刺を出しました。まず私たちは、パキスタンエアーのカウンターを探すことからはじめたのですが、なかなか職員が見つからずに、尋ねた人からも順番にたらい回しにされてしまいます。

あとの9人の日本人乗客はと言えば、年齢も仕事もばらばらでした。

JICA(青年海外協力隊)でケニアにいる友人に会いに行くという大学院生の女性一人、西宮にお住いの50代のご婦人姉妹。東京在住のシステムエンジニアの40代の男性。また、ご高齢のご婦人は飛行機自体乗るのが初めてとのことで、JICA の関係でアフリカにいる娘に会いに行くとのことでした。しかも着物姿で、座席には正座で座られていました。

私たち二人は次第に使命感が高まってきて、何とかここを脱出して目的のケニアにたどり着けるようにと知恵を絞りました。

そしてたどり着いた答えが、インドの航空会社であるエアーインディアへの説得という方法でした。その時点ですでに4,5時間は過ぎていました。

まずは、PK が何の落ち度もない私たちのことを放り出したことや、みんなの目的地はケニアだということを丁寧に説明して、粘り強く説得したおかげで、何とかエアーインディアが当初の経由地であるカラチまでエアーインディアで全員を運んでくれることを了承してくれたのです。

さらに、カラチで PK に乗り継いでケニアまで行ける保証もとってもらえたのです。

その時の達成感は格別なものがありました。達成感というよりはむしろ、大きな安堵感の方が強かったかもしれません。ボンベイは今のムンバイです。当時、空港の窓からはすぐ近くに広がるスラム街が見渡せました。先の山の斜面にまでその波打つように犇めき合って広がっている大小さまざまな灰色のトタン屋根が夕日に照らされてオレンジに輝いている光景を今でも鮮明に思い出します。

初めて行った異国での交渉は、若い彼の頑張りにも助けられて何とか成功しましたが、その時も何故、私が空港職員に呼び出されたのかは何もわからずじまいでした。

恐怖に慄くご婦人たち

その後パキスタンのカラチで、PK が用意してくれていたホテルに泊まります。カラチの空港に到着したときは、すでに真っ暗になっていました。タラップを降りる私たちの目にまず迫ってきたものは、白装束で頭にターバンを巻きつけている屈強な体格の大勢の男たち。

暗闇から勢いよく走ってこちらに近づいてくるのです。最初は何が起こっているのかさえ理解できずにいたのですが、私たちに近づいてきたわけは私たちの持っているスーツケースや持ち物を運ぶためだったのです。彼らは空港で寝泊まりしているポーターだったというわけです。

当然のことながら、ご婦人たちは恐れおののき、私にしがみついてきます。

荷物をとられてしまうのではないかという恐怖を感じられたようでした。

その場をやり過ごした私たちは、入管の窓口に集まります。

ミスター サトシ!」たぶん私がまた呼ばれるのだろうなと想像もついていましたが、今回はファーストネームで呼ばれました。

10 人分のパスポートをすでに預かっていた私は、係官に預けて、待合室に皆で移動します。ホテルは割ときれいでした。回廊形式のホテルで中央の庭を取り囲むように部屋が並んでいて、到着した時は夜中でよくわからなかったのですが、その庭にも大勢のターバンの男たちが寝そべっていました。

やっと眠りにつけると思ったのも、つかの間、隣の部屋から私を呼ぶ声が聞こえてきたのです。 「髙木さん!お願いです。こっちに来てください」何事かと思って、隣の部屋のドアをたたき「髙木ですが、どうされましたか?」その女性は、何度かターバンの男性にドアをノックされたので怖くなったと私に助けを求めていたのです。

「木内さん(仮名)!大丈夫ですよ。その男性はお水を運んでいるボーイです。受け渡ししたらすぐに帰りますから。安心してください」私は、彼女にそう説明して、そのあと念のためにフロントに行って、もうどこの部屋もノックしないようにお願いしました。

あくる日の夕方、PK は私たちを乗せて無事にケニアにむけて飛んだのです。

ケニアのナイロビに到着したのは、夜中でした。もともと、成田出発が丸一日遅れていた上に、ボンベイでもほぼ一日遅れ。

カラチ経由も一泊となったので、約 3 日(72 時間ほど)の遅延でした。

当時はもちろん携帯なんか無い時代だったので、連絡が途絶えたまま日本にいる家族や友人たちも不安な3日間を過ごしていたようでした。

空港についても誰の迎えもないのはごく当然のことでした。

私は、すぐに DoDo World のナイロビ支店に公衆電話から電話を掛けました。

幸いに夜中にもかかわらず駐在員が待機してくれていたので、助かりました。

11 人で暗い空港の片隅にかたまって駐在員のワゴン車が来るのを待っていました。

もともとケニアもアフリカも初めての方ばかりだったので、皆さんお迎えの人と待ち合わせを約束していたはずですが、現在のように携帯電話のない時代は行き違ったら会えなくなるのが日常だったのです。

皆さんのホテルがどこかもわからなかったのですが、そこはプロのアフリカ専門の旅行代理店。すぐに割り出して、一番遠い人から順番にホテルまで連れていくことができたのです。

当然ながら、私は最後だったので、ホテルに着いたのは朝焼けがきれいな時間帯でした。



次章へ続く・・・・

(ほぼ不眠のまま朝を迎えたホテルにて。駐在員による撮影)