MY STORY

私のストーリー

2021-09-30

第十七章:【海外へのチャレンジと試練の連続】

2006年に創業20周年の記念すべき年を迎え、自社屋も構え順風満帆のように思えていました。

従業員も増やし、取引先も増えてしばらくはこのまま安泰な状態が続いてくれるのだろうと・・・。

2007年には、ニューヨークのNYIGF(インターナショナルギフトフェアー)

に初出展し、2009年には、上海INTERNATIONAL LIFE STYLE SHOWに出展。

2009年からは、念願のフランスのMaison & Objet(メゾン・エ・オブジェ)に年に2回、通算4度ブースを構えることが出来ました。

国内での物資不足、そこから海外へ

2006年からは海外部という部署を新たに作っていたのですが、これは当初は海外資材の調達が急務だったという理由からでした。

フレグランスディフューザーを一つ作るにしても、ガラス瓶、リードスティック、ラベルやチャームなどの装飾副資材、香料、パッケージなどの構成部品と呼んでいる資材が全部そろわなければ商品としての完成品は生産できません。

日本では高価すぎてコストが合わないというものや、もともと日本では調達できないような資材はすべて海外で探すしかありません。

そのような事情から、英語や中国語のできる人材を雇い入れて海外の展示会にバイヤーとして参加するために一緒に出張したりしていました。

そこで、私は、海外から資材を仕入れると同時に、今度は逆に海外の展示会に我々の商品を出品していこうと・・。

輸入だけではなく、輸出も同時に行うことで為替の変動リスクもヘッジできるという考え方でした。

また、国内市場の商品需要はこのままいけば飽和状態になる。

香り雑貨というカテゴリーができ、新たな市場の創成期から10年以上経っているということもあり、すでに市場は成熟期を迎えているとの判断からでした。

この先は、もっと革新的な商品を開発して新しい市場を国内に作り出すか、同じ商品でも新たな海外市場に打って出るかのどちらかしかないと思いました。

出展した海外展示会の結果はまだまだ満足のいくようなものではありませんでしたが、折を見てチャレンジし続けることが大切ではないのかと思っていました。

そんなときまた、問題が起こってきます。

人気商品の“供給責任”


タイでのソラフラワーの資材も一社だけでは間に合わずに、3社4社と仕入れ先の工場を増やしました。

それでも資材の輸入は慢性的に遅れ続け、お客様からはクレームの嵐でした。

それだけこのソラフラワーディフューザーがよく売れたということですので、大変ありがたい話ではあるのですが・・。

飛べない蜂が飛べたのですから・・。

しかも、大空高くとべたのですから!

そこまで売れないものには、決してお客様は文句を言わないものです。

逆に売れているのに欠品しているとなると、急に文句を言われてしまうのです。

当たり前のことではありますが、欠品は弊社にとっても、とてももったいないことなので、毎月、納期管理のチェックをしにタイへの出張が続きました。

合わせて、中国、フィリピン、台湾とアジア各国は展示会視察も含めて私の出張ルートとしてやがて定期航路化されていきました。

当然ながら、日本国内には半分もいない月も増えていたのですが、そんな時に限ってやはり事件や事故は起きるのです。

  • タイのソラフラワー資材の制作現場
  • 完成し梱包後のソラフラワー資材

2009年 パワハラ社員との労働審判

パワハラの社員が部下である女性社員に暴言を吐いたり、無理な命令を繰り返したり、時には厳冬のさなかに外で一時間以上も説教をしていたということが判明し、直ちに解雇通達を言い渡したのです。

すると、退社してから1週間ぐらい経過したとき、彼は急に弁護士と一緒に会社へ押しかけてきました。

「解雇は不当だ」というものでした。

地裁での調停に何度か出向くことになったのですが、結果は会社側に非は認められないとの判断をいただき、それでも今後何ごとも起こらないようにと和解金を支払って終えることが出来ました。

しかし、その半年後あたりから今度は「ソラフラワーディフューザー」のコピー商品がいっぱい市場に出始めます。

3社、4社とコピーを作る会社が増えてきました。

実用新案権の侵害訴訟 事件

ある時、営業部の女性が半泣きの状態で会社に帰ってきたのですが、そのわけを聞いてみると、弊社の方が真似をしているんだというデマが広がっていて、新規の営業先のお客様からいきなり怒鳴られてしまったということだったのです。

「よその会社のコピー商品を売るような会社とは取引しない!」と言われ、そうではないですと説明しても受け入れられず、泣きながら帰ってきたようでした。

私は、原則として訴訟はしたくはなかったのですが、こんなことを言われている営業担当がかわいそうでなりませんでした。

早速弁護士に相談して内容証明を送ります。

後は、訴訟の手順通り、粛々と弁理士さんと弁護士さんにお任せしました。

ところが相手は一社ではありませんでした。

アートラボ包囲網が引かれていたのです。

4社で協定を結ばれていてなんと、弁護士は5人、弁理士は4名という内容でした。

護送船団方式というようなものでしょうか・・・

一年半ほどかかったように思いますが、経費の負担も甚大でしたので、上告もやめ、結果は一勝一敗、一引き分け。

実用新案登録ではありましたが、その技術評価書の査定はすべて6の最高値でしたので、負けるはずはないだろうと思っていたのですが・・・。

特許取得とは違って実用新案権は、進歩性、新規性というファジーな観点を問うというものですので、後付けで「誰でも考えられるアイデアだ」との印象を与えられたら覆ることもあるのだと、まさに思い知らされた結果でもありました。

先の労働審判で疲労も蓄積していましたが、社員があのような言われ方をしていた以上、どうしても許せないという思いだけで戦ったように思います。

出費も大きく、経営者として本当に正しかったのかと言われてしまえば、何も言えませんが、いまでも自分は間違っていなかったとは思っています。

たとえ結果が伴わなくても・・。

勝訴した相手先にも私は弁償請求を一切しませんでした。

はやくこの案件から足を洗いたい一心でした。

真似をされるということは、まだまだ力不足なのだと・・、これからは真似たくても真似のできない企画で勝負しようと、心に決めた瞬間でした。

海外での会社設立

2010年は海外への新たな挑戦をスタートさせた年でした。

2009年のギフトショーで出会ったお客さまがそのキーマンとなりました。

当初、私は経済成長も他国に比べて飛びぬけていた中国のマーケットへの足掛かりをつかみたいと思っていたのですが、このとき弊社のブースに来られた香港でショップ展開をされている日本人の社長様と面談をして、香港の可能性を強く感じました。

その社長からお聞きしたのは、次のような情報でした。

「高木さん、中国は大変きびしいですよ!上海や深センなどの経済特区をお考えなのでしょうが、もちろん今は独資での会社設立もできますが、中国政府の政策はよく変わりますし、日本人が経営する中小の会社も撤退するところが毎年増えています。」

「その点、香港は自由ですよ。資本金もいくらからでも設立は出来ますし、もちろん独資でオーケーです。タックスヘブンといってほとんどのものは香港に輸入されても税金はかかりませんから・・。そして法人税も低い水準です。」

私は、生の声が聞けて良かったと思いました。

先に外国で会社を経営されている方からの助言は、なにより信頼のおける情報だと思いました。

毎年、4月と10月には、アジア全域で国際展示会が開催されることもあって、私は早速4月の展示会出張のスケジュールに香港を長めに加えました。

実際に香港と中国には2001年以降は頻繁に行っていましたが、実際に会社を作るつもりでは行ったことがなかったので、今回は、法人を作る時のための勉強のつもりで行くことにしました。

まずは現地の不動産屋に行って、めぼしい物件を何か所か案内していただきました。

周りの環境はどうか、どのような企業が集まっている場所なのか、街を歩く働く人たちの服装や商店のレベルなど、いままで気にかけていなかった普段の街の風景の一つ一つが気になるようになってきたのです。

場所と家賃の相関関係はやはりどの国も同じで、綺麗で雰囲気のいい街は高く、古くて汚い街はそれなりに安いということでした。

しかし、思った以上に家賃は高く、東京とはほぼ変わりがないことには大変驚きました。

それはそうです!香港は土地が狭いため高層のビルが立ち並ぶところも多く、また国際貿易都市であることから、世界中から人や企業が集まっています。

ビジネスチャンスも大きいため、投資家も次から次へとビルやマンションを買いあさっているので、安くなることがないのだということも次第に理解できるようになりました。

ただ、その時は人件費が日本の半分か高くても3分の2ぐらいだったので、私は総合的に判断してチャレンジしてみたいと思いました。

(当時、1香港ドルは10円でした)

香港への進出を決めた私には5年後の構想がありました。

香り雑貨の製造卸売りというビジネスモデルが日本国内の市場だけで一体何年もつのだろうか?という自身への問いかけに対して10年、もしくは長くもったとしても15年ぐらいだろうと腹をくくっていましたので、もう次のステップへ移行し始めなければ会社は続かなくなると、そう思っていました。


次章へ続く・・・・