MY STORY

私のストーリー

2021-07-15

第六章:【京都へ都落ち】

 第五章のモノづくりへの再チャレンジでお話しました通り 「快石シリーズ」の発売は、結婚披露宴の引き出物というお客様のご要望によって一旦は叶えることは出来ましたが単発に終わってしまい、また一から行商を続けるしかありませんでした。また卸売りを始めるにもまだ信用がなかった為、取引をして頂ける業者を探すのも至難の業でした。

そんな中、またしても友人の知り合いから助言を受けます。

さようなら、東京。

 日本におけるテーブルコーディネーターの先駆者、クニエダヤスエさんの「テーブルの上の素敵」という名称のイベントが渋谷の西武百貨店で始まることを知り、友人の口添えもあって「快石シリーズ」の箸置きを、なんとテーブルコーディネートに使って頂く事になりました。そして、それが大阪から来られていた「リチャード」というお洒落なキッチン雑貨とインテリアのショップバイヤーさんの目に留まったのです。

ご縁というものは本当に不思議です。当時リチャードさんは関西ではとても有名なチェーン店で、そこのイタリアンカラーの紙袋を持つ事が若いOLさんやマダムたちのステイタスでした。

第一子が誕生した時に起業した私には、当然ですが妻と子供を養う責任があります。このまま石拾いをして箸置きだけを売っていくには限界がある。

リチャードのバイヤーさんからは、「取引口座も開けてあげるよ」というお話ももらっておりましたので、このチャンスを逃さないようにしなければいけないと、そう思いました。

そんな事もあり、私は生まれ育った地元の京都へ戻る決心をしました。

 当時、私が東京で住んでいたのは信じられない程の高い倍率だった多摩ニュータウンの公団。それはそれはとても気に入っていたアパートでした。

8Fの角部屋、ベランダも二つもあり、緑も多くて環境もよく、ご近所さんとも仲が良く家族ぐるみのお付き合い。離れがたい想いもありましたが、選択肢は他には考えられませんでした。

そして私たちはボロボロの中古車とトラック一台に、家財道具と石ころを全部積み込んで京都へと移住します。1987年の9月の事でした。

余談ですが、ビール好きの方はご存知かもしれませんが、1987年はアサヒビールがアサヒスーパードライを発売し始めた年でした。 京都に戻ったその日、父は私と引っ越しの手伝いをしてくれた友人たちを居酒屋に連れて行き、この新発売のスーパードライを飲ませてくれたのを覚えています。

風変わりな食器を売り捌く日々

 移住を決めてからは、瀬戸、多治見、土岐、四日市などの窯元を地道に廻って、運良く数件の窯元さんから取引の承諾を得る事ができました。 その当時の日本の窯業業界は、殆どの窯元が輸出専門で生産をしていたという経緯があり、国内向けの販売という事ならOKとの事でした。 当初の支払いは C.O.D.(引き渡し時現金払い)という厳しい条件ではありましたが、次第に信用も出来て条件等も少しずつ緩やかにして頂きました。

そして私は、キャベツやフルーツの形をしたサラダボウル、ホルスタインの口から流れ出る様になっているティーポットやミルクピッチャーなど…特にアメリカへ輸出していた風変わりな食器を取り扱う事にしたのです。

メーカーさんの倉庫の奥にある埃をかぶった昔の石膏型などの中から、面白そうな物を選んではそれを製造してもらうように交渉を続けました。

 東急ハンズさんにも口座開設(当時は良い物を取り扱っていれば、法人でなくても口座を開設してくれました。)が既に完了していたのでお店の棚も空けて頂いて順調に売れ行きも伸びていきました。

黄色いお皿や真っ赤なティーカップなど、昔はタブーとされていたカラフルなテーブルウェアも、先にお話したリチャードさんを中心に飛ぶように売れていきました。

本当にハートビジネスと呼べるのだろうか

 無我夢中だった時に比べると少しだけ基盤も安定し、考える余裕を得た私は「生きるために選んだ道とはいえ、自分はやはりモノから離れられないのだ」 「でもこれが、本当にハートビジネスと呼べるのだろうか?」と、そんな疑問が湧いてきました。


そんな中、漠然とした疑問を断ち切るかのように、私は雑貨のお店を京都に作ります。

資金は銀行から初めて借りた200万円。


当時京都には雑貨屋と呼べるようなお店は皆無でしたが、卸売りの商材として販売していた食器類だけはたくさんあったので、それらを陳列して初めてのショップをオープンさせました。


次章へ続く・・・・

  • フランスの田舎町で出土されたというアンティークでメルヘンな陶器の復刻版
  • 一番人気の赤い色はなかなか難しく、不良品も多く出るため苦労しました。